2017年7月20日木曜日

初めて見るもの 食べるもの



実家の母へうちのベランダでとれたナスをお土産に持っていったときのこと。しま模様のナスのカプリスと、ぽってりした薄紫のナスのロッサビアンコを取り出してみせるやいなや、「なんときれいだこと。こんなの、見たことない!」と感嘆。だが、

母「これなんなの?」
私「ナスだよ。イタリアの在来種だって。」
母「いいや、ナスでないっ。ナスは茄子紺といって紺色なんだもの。こんなのはナスではない。」ときっぱり申して、ちっとも引かぬ。
あげく、「こんな色は毒々しい」とか、「つやつやしてるのが変だ」とかのたまふ。私が「焼きナスにして食べたら、とろっとして美味しいよ」と進言しても、「いいから、いいから」と押しもどし、頑として受け入れんのだ。

しかし、これほど反論しておきながら母はなぜか、しましまカプリス2個を手に持ち、曲がった腰でトコトコと仏壇に運んで行ってしまった。そういえば、なんでも仏壇にあげる家である。通知表、写生した絵、免許証などなど。いつぞや、私が発泡スチロールで作った水の分子模型でさえも、土産の青梅煎餅と一緒に並べてましたからなあ。無神論の象徴みたいな分子模型と仏壇との妙な取り合わせに、ぶふふと吹き出したことを思い出す。

それにしても、なにゆえカプリスだけ仏壇で、ロッサビアンコはテーブルの上においたままなのか。この選択っぷりが謎である。

 食事どきになり、私が台所で味噌汁を作っていると母が、「ここのナスも入れたらどう」といって、あの置き去りにされたロッサビアンコを指さしている。

なんたるもったいない仕打ち! 私は、内心怒り爆発。こともあろうに、そのへんに売っておらん貴重なイタリアンナスのロッサビアンコ様を、味噌汁のようなごった煮に投入するなどもってのほかじゃ。このナス様は、ナス様オンリーで、だいじに優しくなでるようにステーキにしていただくような高貴なお方であるぞ。と、申し述べたい気持ちをぐっとしまい込み、小さく切ってニンジンやらジャガイモやらと一緒くたにして汁椀に盛りつけてやった。ともかくも食べてもらわねば。食べれば、なあんだと思ってもらえるのだ、といいきかせて。

こうなるともはや、ロッサビアンコの汚名を晴らすといいますか、イタリアンナスの普及大使、あるいは新商品のプレゼン屋さんですな、あたしゃ。
母がお椀のナスに箸をつけるのを、横目でちらちら確かめるわたくし。
母「あら~、柔らかいんだねえ、このナス。とけてしまいそうだよ。これならもっと後から入れてもよかったねえ」ですと。はいはい、なんとか無事第一関門突破。

 そうなんだ。新しいものを受け入れるというのは容易ではないのだ。だって、一番最初にナマコやゴーヤを食べた人はすごいと思うもの。
まてよ。ちょいと予想がつきましたぞ。ロッサビアンコは母にとって、ナスとしてまだ認められる範囲だから食べてみてもいいと思ったにそういない。しかし、しましまのカプリスはどうにも納得がいかんから、とりあえず仏壇において食べるかどうかを棚上げにしているのにちがいない。第二関門は、カプリスなのだ。

 そして母は、仏壇の前を通るたびに立ち止まり、あやしげ色のカプリスを見上げ、「しかし、不思議なものがあるもんだ」とか、「もう少し眺めたいから、ここにおいとく」とかぶつぶつ言うのである。
おーい、かあさん、早いこと食べとくれ。腐っちまいますがな、もう。 (記:2015年9月16日)

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